小さなルーアンとのお話。
ある日起きたら、ルーアンが小さくなっていた。
詳しい原理はよく分からないが、不思議な効果で一時的に小さくなってしまったらしい。
この状態はせいぜい一日程度で、明日にはもとに戻っているだろうとのこと。
難儀なのは、体が小さくなったとともに記憶も当時のものになってしまっているということだった。
つまり今の彼にとっての私は全然知らない、初対面の人間なのだ。
「ねぇ、そんなに怖がらなくてもいいのよ。何もしないからこっちにきて」
「……」
いくら優しい声音で言っても幼いルーアンは部屋の隅から動かない。
人間に怯える野性の子猫のようだ。
「そんなに私のことが怖い?」
自分で出しうる最高に優しい声のつもりなのだが、まったく警戒を解いてくれない。
「…っ、し、しらないひとと勝手に話したら、母上に…おこられる、から…」
やっと声が聞けたと思ったら、そんなことを言う。
今は私と結婚することになって、母親との関係は良い方向に行っているみたいだけれど、
幼い頃ほど親の影響が大きいはずだ。こんな小さな頃なら母親の言うことは絶対だろう。
それならやっぱり母親を話に出すのが一番効果がありそうだ。
「ルーアン。今日はね、あなたのお母様にあなたを一日預かって欲しいって頼まれてるのよ」
「え……」
「明日になったら迎えに来てくれるから、それまで私と一緒にいましょう。ね?」
「むかえに…ほんとにむかえにきてくれるかな」
「どうして?当たり前じゃない」
「ぼくがおちこぼれだから…おいていかれたのかもって…」
大きな目にいっぱい涙を溜めているルーアン。
こんな幼い頃から落ちこぼれだなんて言われていたのか。
それは根が深くなるわけだ。私はたまらずルーアンに近寄ってその小さい体を抱きしめた。
「わっ!?え、なに…?」
「大丈夫よ。絶対に迎えに来てくれるから安心して。それに、あなたは落ちこぼれじゃないわ」
「なんでそんなこと言うの…何もしらないのに」
「私には分かるのよ」
抱きしめながら頭を撫でると、最初は驚いていたようだけど抵抗はされなかった。
少しは信用してくれたのだろうか。
「あ、あの……苦しい」
「あら、ごめんなさい」
腕の中で控え目に抗議の声をあげられ、慌てて腕を離した。
「ええと、それじゃあ、待ってる間遊びましょうか。何がしたい?」
「え?き、急に言われても……」
突然の問いかけにルーアンは戸惑っているようだった。
これはある程度こっちが決めてあげた方がいいかもしれない。
人見知りが激しいから外に出て人と会うのは避けた方がいい。
部屋の中でできることで何かないだろうか。
「ああ、そうだわ。絵本でも読む?」
「絵本?」
「ええ。だめかしら?」
「……ううん、絵本……読む」
控え目に頷いて、上目遣いで見上げられて息が止まりそうになる。可愛い。
小さくなった姿を見た瞬間から思っていたけど、本当に本当に可愛い。
こんな可愛いルーアンが素直に人に甘えられないなんてあってはならない。
また抱きしめそうになるのを何とか抑える。驚かせてはいけない。
私は使用人にいくつか絵本を見繕ってくるように頼んだ。
+++
「どうしたの?面白くない?」
絵本を持ってきてもらったのはいいものの、何となくルーアンが退屈そうに見えて聞く。
「そ、そんなことないけど……」
「本当に?正直に言っていいのよ?」
「……えっと、ちょっとかんたんすぎるかなって」
「簡単すぎる?」
絵本の内容や文字が簡単すぎるというのだろうか。
今のルーアンくらいの年頃ならこれくらいがちょうどいいと思ったのだけど。
「それは気づかなくてごめんなさい。じゃあ、ここにたくさんあるから好きなの選んで」
「え……好きなのえらんでいいの?」
「ええ、もちろんよ」
ルーアンは少し戸惑っていたけれど、絵本の山の中からいくつか好きなものを取り出して持ってきた。
…自分で選べることに戸惑うだなんて。普段は全部決められてしまっているのだろうか。
「これ……読みたい」
(…これ、随分大きい子向けよね)
ルーアンが持ってきた絵本は、確かに子供向けの絵本だが、おそらく対象は12歳程度だ。
ルーアンみたいな幼い子が読めるとも思えないし、読めても理解できないだろう。
「……あの、だめだった?」
「い、いえ、そうじゃないのよ。随分難しい本が好きなんだなってびっくりしていただけなの」
「むずかしいの?ふつうだと思ってたけど……」
キティカの王族の教育は随分レベルが高いらしい。
私が同じ年頃のとき、こんな本なんて読めなかったと思う。
「ルーアンはとても頭がいいのね」
笑って頭を撫でると、びくりと体を震わせる。驚かせてしまっただろうか。
「…頭いい?ぼくが?」
「ええ」
「そ、そんなことないよ……ぼく、落ちこぼれだから。兄上たちはもっとできるよ……?」
「お兄様たちはあなたより年上でしょう?できて当たり前じゃない。同じ年頃になればあなただってできるようになるわ」
「……」
ルーアンの表情はとても戸惑っているように見える。
こんな幼い頃から誉め言葉を素直に受け取れないなんて。あまりにも切ない。
「私は嘘なんて言わないわ、ルーアン」
「……っ、う、うん」
私よりずっと小さな手を握ると、ルーアンは顔を赤くして、弱々しくも握り返してくれた。
記憶は幼い頃に戻っていても、心は私のことを覚えてくれているのかもしれない。
+++
あれから私が絵本を読んであげたり、ルーアンが自分で声に出して読むのを横で聞いたりしているうちに時間が過ぎていった。
最初は緊張していたルーアンも私に打ち解けてくれて、今はリラックスしているように見える。
「ん……」
「あら、眠くなっちゃったのかしら?」
「だい、じょうぶ……」
大丈夫と言いながらもまぶたはほとんど閉じているし、首はふらふらしている。
「眠いなら我慢しなくてもいいのよ」
「だって……眠ったら、一緒にいられない……」
寂しそうに私の服を握ってくるルーアンに愛しさがこみ上げる。
「ふふ、大丈夫よ。眠っても一緒にいるわ。ほら、膝の上にいらっしゃい」
「ん……あったかい」
私の膝の上に誘導すると、ルーアンは本物の子猫のように丸くなった。
気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
「おやすみなさい、ルーアン」
ゆっくり頭を撫でていると、そのうち規則正しい寝息が聞こえてきた。
安心しきった安らかな顔で眠っている。
懐いた相手に甘えるのは今も昔も一緒だ。そう思うと微笑ましい。
膝の上で眠る子猫の目が覚めるまで、私は優しく頭を撫で続けていた。